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競争と協働

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 競争と協働競争と協働

1.はじめに-問題把握と課題設定
 現在の資本主義経済は、格差拡大の一方で、バブルと金融危機を繰り返し、その危機対策のために財政破綻を来たし、さらに経済拡大が環境破壊をもたらすという閉塞状況にあり、その原因と解決策の探求が行われている。グローバルで、より完全な自由市場の未成立と更なる競争の欠如がその原因であり、競争の拡大により経済成長を図ることで上記問題は解決可能であるとする新自由主義者の指摘がある一方、逆に新自由主義的な競争経済がその原因であり、人類が生き延びるために自然との共生を図る協働が次世代の指針となるべきであるとし、すでにNPOなどによる各種活動の芽が現われているという指摘がされている。新自由主義者などがいうように資本主義の再活性化を図るために規制緩和による更なる「競争」を導入するべきなのか、それとも環境保護主義者や各種NPOがいうようにグローバル金融資本主義との決別を図るために「協働」や「共生」を基軸にした活動に転換すべきなのかという形の課題設定が多くなされている。
 「競争」は支配的な既存勢力によって強力にかつグローバルに提案・展開されているのに対して、「協働」は各地域で小規模に細々とした形態でしか展開されていないが、グローバルに散在しており、将来性を伺わせる普遍性をもって展開されている。そして、現状では、一方で「競争」だけが、他方で「協働」だけが、互いに相容れない形で強調されているが、冷静に現実を見れば両者は互いに切り離せないものとしてあり、ここでは「競争」と「協働」の関係を今一度検討し直すことを課題としている。
2.現状の歴史的認識
 まず、現状を競争とその規制と協働の観点から歴史的に検討する。
 重商主義体制では、様々な規制の下で既得権者の利益が守られ、一般国民の利益が損なわれているとして、新興産業資本家(ブルジョワジー)は産業資本主義の全面開花を達成するために規制を廃止して自由市場を形成することを求めたのである。尤も、重商主義は封建体制とその規制を打破し、産業を興すために国王が商人の要求に応じて特許されたものであり、決して元々から反動的なものであったのではない。産業資本の理論的担い手は、自由市場(=競争の場)における競争的行動によって意図せずに資源の最適配分がなされ、効率的な利用が図られて社会の利益を高めることができると考えたのである。ただし、急激な規制緩和を行ったならば社会的混乱が起きる危険性があることは認識されていた。
 その後、資本主義の発展に伴って自由市場における過当競争と独占の弊害と度重なる恐慌の発生とによって自由市場主義経済が行き詰まり、ついには資本の生き残りのための市場獲得競争のために世界大戦が発生してしまうことになった。そこで第二次世界大戦後、労働分配率を高めるとともに社会福祉制度を構築することで需要を拡大して経済成長を図るとともに中間層を形成し、不況時には公共投資により有効需要を創出するという経済政策を行うことで、資本主義下で安定的に経済発展を達成するフォード・ケインズ・システムが構築され、そこでマクロ経済をコントロールする経済政策と各種規制が導入された。
 しかし、その後の情報化とグローバル化の進展に対応した経済構造の変化によってフォード・ケインズ・システムが立ち行かなくなり、規制緩和が叫ばれるようになった。というのは、情報化の進展による製造業の利潤率低下や商品寿命の短命化と、石油などのエネルギー資源や食料資源が不足する恐れと環境悪化に対する対策によるコスト高と、ドルの金兌換停止による国際基軸通貨の脱物化を原因としてスタグフレーションが発生するなど閉塞した状況を呈するに至った。このような状況変化に対して、各種規制が導入された当時においては適切であったとしても、既得権の受益者を保護するために経済の発展を阻害するような無駄・無理な規制となっており、そのような過剰な規制構造によって社会的利益が損なわれているとして、規制を緩和して自由な競争を導入することによって効率化を図れ、というような議論が多くなり、「規制」は悪、「競争」は善というような思考パターンが無批判に受け入れられるようになっている。そして、規制の撤廃・緩和を核とし、「官」による「規制」から「民」による「競争」へという市場重視の構造改革を行うことによって、民の創意工夫が引き出されて経済成長が可能となるというような見解が経済界では主流となっている。
 しかし、市場重視の構造改革によって資源の最適配分が実現されるというのは、理念型としての商品市場においては価格システムによる需給調整メカニズムが働くということに過ぎず、部分的な真理であるに過ぎないものを拡大解釈によって不当に普遍化したものである。そのため自由市場では、最大利潤の獲得だけを求めるグローバル金融資本の論理により、格差の拡大と、バブルと金融危機の繰り返しと、金融・財政危機の進展とグローバル金融危機の深刻化という弊害をもたらしている。
 一方、市場経済の下では「協働」という視点が直接表れてくることは殆どなかった。しかし、そもそも社会的分業は社会的協働そのものであり、分業の成果は協働によるものであり、経済活動を含めて社会活動において協働の視点は不可欠である。ただし、社会的協働としての分業が現状の市場経済の下では競争システムに従属した形でしか機能しないようになっている。また、経済理論で協働がそれ自体として認められるのは、業界団体などによる協働を競争阻害要因として扱ったり、企業内部での生産活動における協働が挙げられる程度である。また、実経済における協働組織としては、協同組合(農業協同組合、信用組合、生活協同組合、中小企業組合など)が株式会社と同じ位早くから形成されていたが、人類愛による人道主義に基づいた協同組織体の構築というような、空想的社会主義の考え方に拠った人の相互扶助組織として成立したものであるため、広範な市場経済に取り込まれて市場競争には勝てず、少数派のまま市場経済の片隅に追いやられている。また、近年はNPOなどが、福祉、環境、地場産業、小口金融などを含めて多くの分野で活躍の場を拡大しており、その展開に将来性が予想される一方で、市場経済を超えて経済の主流となって行くような具体的な展開の論理は未だ見えていないというのが実情である。
3.競争と協働の原理的分析
 そこで、改めて競争と協働及び両者の関係について原理的に分析することにする。
 競争にはその前提としてのルールがある。ルールの無いところに競争はなく、ルールなき競争は競争ではなく混乱である。戦争でさえ国家間の武力による競争で、容易に都合よく改変されるとは言えそれなりのルールがある。また、革命は新しいルールを形成する過程の混乱である。
 この競争において公正な競争を確保するためには、次に列挙するようなルールを満たす必要がある。
① 競争の場が情報と人の両方で外部に開かれていること(開放性)
② 自立した人が自主的に場に参加すること(自主性)
③ 競争の内容(競争条件を含む)を公正かつ明確に設定し、それ以外の外的要因の干渉や影響を排  除して競争の充実を図ること(充実性)
④ 信義誠実の原則の下で公正に競争すること(共感性)
⑤ 競争の結果を連携して誠実に受け入れること(連携性)
 ということが挙げられる。③は、競争を成立させるとともに競争内容の充実を図り、公正な競争を担保するためには、競争条件の設定が不可欠であることを表わしている。これ以外は各々自明な事項であり、詳しく説明する必要はないであろう。
 また、協働にもルールがある。やみくもな協働、特に閉鎖空間・社会で強く協働が標榜されるときには専制と同義になる可能性がある。
 この協働においても公正性を確保するためには次に列挙するルールを満たす必要がある。
① 協働の場が情報と人の両方で外部に開かれていること(開放性)
② 自立した人が自主的に参加して場が構成されていること(自主性)
③ 人々が、協働の目的に対する明確な意思を持ち、目的達成のために自らの能力を生かす場を主張  することで協働の充実を図ること(充実性)
④ 目的達成のため相互に意志疎通を図り、公正に意見を戦わせて合意を得ること(共感性)
⑤ 合意に基づいて連携して行動すること(連携性)
 ということが挙げられる。③は、公正な協働を確保するためには、形式的な協働によって協働が形骸化するのを防止し、人々が協働の目的達成に対して積極的に関与する能力を持つようにすることで協働の内実を充実させる必要があることを表わしている。これ以外は各々自明な事項であり、詳しく説明する必要はないであろう。
 このように競争と協働は、それらの公正性を満たすルールが各項目の末尾に括弧書きしたように、開放性、自主性、充実性、共感性、連携性という共通の理念や価値観をもっていることが分かる。
 また、競争と協働は共通の基盤の上で存立して相互に補完的な在り方をする。例えば最も原初的な形態として個人対個人における競争と協働の例として競技を行う場合を考えてみる。個人対個人の競技においては、競争の対象・内容の設定、競争条件(体重等による区分やハンデ付与等)についてルール設定を行うことにより公正性が確保されることが多い。なぜなら、単純な競争においても、ともに成長することを求める場合、勝敗がはじめから明確であれば競争の意味がないからである。また、競技は一定のルールの下で競争し、その勝敗が決するとその結果を相互に誠実に受け入れるとともに敗者をそれ以上攻撃しないということから、競技を楽しむために協働していることでもある。
 また、一般的な組織対組織における競争と協働の例として、スポーツ連盟においてチーム(組織)間でリーグ戦を行う場合を考えてみると、チーム内のレギュラーメンバー選考ではチーム内で競争し、チーム間の対外試合ではチーム内が協働して他のチームと競争を行っており、各チーム内において協働と競争が相補的に連携しており、またチーム間でもスポーツ連盟として協働して、公正な競技を担保するとともに各チームの競技力を高め、競技の質を高めることでファンに多くの楽しみを与えるように協働して競技の発展を図り、他の種類のスポーツ連盟との間でファンの獲得競争を行っているのである。
 また、同様に、外部の市場が競争の場であり、内部の生産現場が協働の場であると認識される典型的な企業活動においても、企業の競争力を高めるために企業内での競争が不可欠であるとともに、企業間での適正・公正な競争を担保するために企業間での協働が不可欠であり、競争と協働は相補的に連携している。また、対内と対外というのは多重性を持つとともに各々において競争と協働が相補的に連携しており、認識の次元を変えれば、別次元の競争と協働がある。
 このように競争と協働は相互補完的に連携するものであり、「規制(ルール)」はそれらの公正性を確保する前提としてそれらの在り様を規定する条件である。したがって、社会において競争と協働が共通の基盤を持って相互に相補的な関係を実現するような公正な「規制(ルール)」を設定することが望まれ、そうすることで公正で豊かな社会発展を実現できる可能性がある。
4.資本主義経済下における市場競争の公正性
 以上のような競争と協働の相補的な結合関係を考慮に入れて、改めて資本主義経済下の市場競争について再検討する。
 一般に自由競争は公正であるとする見解では、自然界の生存競争による適者生存が挙げられ、自由競争とその結果は自然の摂理であるとされることが多い。しかし、自然界においては「弱肉強食」・自然淘汰・適者生存(個と種)などの生存競争に関して、強者の欲求に自から限界があり、かつ多様な自然環境・条件の中では欲求そのもの及び強弱の持つ意味が多様であるという条件が前提として存在しており、これによって公正性が担保されて多様な生物が存在しているのである。また、自然条件の変化は影響の受け方に違いはあるとはいえ全てのものに不可避にかつ公平に作用するため公正であるとされる。
 これに対する市場経済においても、競争が適正に行われる限り、経済の発展、より一般的には社会全般の発展に対する健全な動機付けとなることは確かである。しかし、普遍性を持った単一の価値基準でかつ限界がない利潤を動因とする自由市場においては、単純な自由競争のルールでは公正性を実現することはできない。市場を成り立たせる規制(ルール)が適正かつ十分でない場合には、過当競争によって市場規律が損なわれたり、独占の弊害を生じたりし、さらには人々の安全が損なわれる恐れさえある。したがって、市場競争においてその公正性を担保するにはどのように規制するかということが問題になる。
 商品市場において、商品の質と量、コストと価格、販売方法、需要喚起力などに関して自由な競争を担保している市場は、表面的には公正であり、社会的に肯定的な役割を果すものといえる。また、その自由市場とは、市場に誰でも参入でき、その市場参入に差別などの障害や障壁がなく、種々の参入規制が不公正な取引方法として排除される市場である。ただし、詐欺、不履行、業務妨害、不正競争に対して規制を行うことは、自由市場を担保するために絶対的に必要な規制であり、公正なルールであるとされている。
 その一方で、このような自由市場では、利潤のみを動因とし、大量生産・大量販売を原理とする産業構造においては、資金力のある大資本の方が強い競争力を持つのは当然であり、大資本が自由に振る舞えば、小資本はたとえ特色を持ち社会的に意味のある商品を生産していたとしても価格競争を仕掛けられると競争に敗れる確率が極めて高く、市場からの退出を強制されるか、大資本に従属させられるという事態に陥ることになる。このような事態は自由で公正な競争が行われているとは本来言えないにも関わらず、資本主義経済下ではこれは競争の結果であって公正なルールを逸脱するものではないとされる。しかし、少なくとも独占禁止がなく不正競争の規制内容が貧弱な場合には、不公正な競争が行われることは確かである。そのため、過度の私的独占や寡占企業による談合などによって競争が著しく制約されたり、成立しない状態になると、競争の結果であっても市場規律が歪められて公正でないとされ、それを防止する独占禁止法などは自由市場にとって正当かつ必要な規制とされることが多い。ただし、競争が公正であるか否かの判断基準は、競争のみの観点、競争がどの程度成立するかの観点のみから為されているため立場によって異なることになる。しかし、本来、自由で公正な競争とは、種々の価値と特色を持った人々が種々の態様で競争して共栄するものであり、そのため人々の協働が相補的に結合するような規制(ルール)のもとで成立するものである。
 また、近年は、経済のグローバル化に伴って商品を海外で自由にかつ安価に製造して輸入することが容易となり、それが大商業資本によって積極的に担われることによって、中小企業や商店街などが直にグローバルな市場競争に晒されて市場からの退出を強制され、次には農業や医療なども標的にされるという事態が進行しつつある。そして、グローバルな市場競争に打ち勝てる競争力を身につける工夫をせよと教えを垂れる。さらに、外国資本からは市場への参入を阻害するとして各種の保護規制(ルール)の撤廃が要求されるとともに、国内の大資本からは、国際競争力を確保するために中小企業の保護規制を撤廃し、労働者を保護する規制(ルール)を緩和・撤廃して派遣労働の一般化、アウトソーシングという名目での偽装下請の許容、雇用・解雇の自由化を実施せよとの要求が為されている。これはグローバルに等質な自由競争市場の形成が労働市場を含めてあらゆる分野で不可避でかつ合理的なシステムであるという意味で公正であるということを前提とし、そこでの競争の観点のみから見れば公正であるということになるが、本来的には不公正である。というのは、グローバル化とは、生活様式、文化の多様性の持つ価値を生かしつつ、相互の連携・協働を図りながら競争することでさらに多様な文化を発展させることを期するものであり、したがって自由市場での競争のみの観点ではなく、協働の観点を相補的に融合させた観点から把握すべきであり、その場合は不公正ということになる。
 さらに、市場構造の高度化に対応してリスクをヘッジするために設計された先物市場やその金融商品を多重的に組み合わせた金融派生商品(デリバティブ)が生み出されるとともに、情報化の進展により情報処理が高速化・高度化することによって、商品市場も金融市場も利潤を目的とする資本主義的市場の下で極めて投機的な市場になっている。商品市場では、特に穀物などの食料と石油などのエネルギーがそのターゲットとなり、リスクをヘッジするよりも商品価格を乱高下させる作用を奏し、それによってヘッジファンドが巨利を得る一方で、世界の人々、特に最貧国の人々に多大な災禍をもたらしている。為替、株式、債券、それらのデリバティブなどの金融市場でも、相場の乱高下及びバブルと恐慌の繰り返しによってヘッジファンドが巨利を得る一方、世界的な金融破綻の恐れとそれを回避するための対策による国家財政の破綻の危機が訪れようとしている。そこでの巨大ヘッジファンドのあくなき利潤を求めて行う自由市場での取引は、競争の観点から形式的・表面的には公正であっても実質的には明らかにリスクヘッジする機能を超えて過剰で不公正な取引となっており、その不公正な競争をコントロールすることが不可能に近くなっている。
 競争の公正性を確保するには、協働との相補的な関係を成立させるような規制(ルール)を行うしかなく、そのために少なくとも利潤の追求のみを動機とする競争に対しては強い規制で縛るほかないと考えられる。
5.競争と協働の連携形態の展望
 以上のように、資本主義経済下では、利潤を動因とする自由競争の原理だけしか作用せず、規制が行われるのは競争の観点から競争を担保するために必要悪として行われるか、補助的に人道主義的な観点からか、一部の業界保護の観点から仕方なく行われるだけであるため、結局大局的には競争原理に押し切られて有効な規制を行うことは不可能とならざるを得ない。
 そのような競争原理の資本主義経済システムは、先に述べたように現在あらゆる場面で矛盾をさらけ出し、行き詰まりを露呈しているというのが現実である。その一方で、資本主義経済システムの下で情報社会に向けての胎動が、物財に対する欲求低下、商品寿命の短命化、価値観の多様化、バーチャル世界の拡大、インターネットによる情報共有など、あちこちに表れている。
 情報社会は、資本と利潤が主導的な動因ではなくなり、多様な価値が動因となるとともに多様な文化を持っている状態のグローバル世界がフィールドになる社会であり、そのような社会ではグローバルな自由市場で競争と協働の場が形成されることで、公正な競争と協働が相補的に結合したシステムを実現できる可能性がある。論者には、そのようなシステムを構築することで安定して発展する自由で公正な社会を構築することができるという展望が基本としてある。
 このような競争と協働が相補的に結合した活動を行う組織としての企業形態は非営利企業が最適である。というのは、利潤を目的とせず、企業活動そのものを企業目的とし、その達成を目指すことから企業目的と業務活動が融合しているため、企業の内部と外部において協働と競争の相互補完的な結合を実現する組織・運営形態が求められることになる。そのためには、利潤を目的とする競争原理の私企業でなく、公益を目的とする協働原理の公企業でもない企業形態である必要があるためである。すなわち、公益を目的として公が独占して企業活動を行うため協働原理が閉鎖性と非効率をもたらす公企業と、利潤を目的とする競争原理が自然破壊と社会の格差と不安定をもたらす私企業との間に、NPO(非営利団体)の企業、非営利企業というカテゴリーを設定することで、競争と協働の融合を実現できる可能性がある。
 この非営利企業は、その名の通り営利を目的とすることなく、社会的な必要性を満たす社会貢献を企業目的とし、その企業目的を自らの活動の存続によって達成する企業であり、自らの活動に対して社会的評価・名誉を得ることをインセンティブとする企業である。勿論、非営利企業であっても寄付や援助に依存することなく存続するため、企業活動によって安定して存続するのに必要な利潤を確保できるように企業活動を行うことは必須である。
 このような非営利企業における企業内組織は、競争と協働がうまく噛み合ったプロジェクトチームを中核とし、その連携体やその多重連携体として組織するのが好適である。組織員は、チーム内でプロジェクトが成功するように、プロジェクトのより良い担い手になるように相互に協働と競争を行い、その中からさらに新たなプロジェクトの分化・立ち上げを目指すように活動することで、企業が存続・発展する。また、業界などの外部環境におけるプロジェクトの位置に対応して企業外での競争と協働を行い、さらにはグローバルな視点により対外的な競争と協働を行う。その際、インターネットによるグローバルな情報の相互取得、共有により多彩な価値を持ったグローバルな世界の中で有意義な企業活動を行うことができる。
 非営利企業が展開するのに適した分野としては、教育分野、スポーツ分野、福祉・介護分野、研究開発分野、農業分野、医療分野、公共の施設や空間の管理・運営分野などが、新たな企業形態に適している。これらの分野は、皮肉なことに資本主義経済システムの行き詰まりを示す現在の経済状況を打開できる可能性のある成長分野とされている。しかるに、これらの分野は、利潤を動機とする株式会社化には不適切であり、非営利企業が最適である。具体的な展開の可能性の一例として、例えば労働者協同組合(日雇労働者の組合)が、清掃などの役務から介護サービスなどに拡張しており(百瀬恵夫、『新協同組織革命』、東洋経済新報社、2003年 参照)、さらに企業化することによってより広く一般の教育やスポーツの分野でも活躍できる可能性がある。
 非営利企業の事業資金をどのように調達し、その資金提供者をどう位置付けるかということについては、少なくとも株式発行により資金調達する株式会社は、株主が会社の所有者であるとする法制に縛られかつ株主は利潤のみを求めるため不適切である。金融NPO(藤井良広、『金融NPO』、岩波新書、2007年 参照)が最適であるが、現状では極めて微力である。しかし、この金融NPOの投資数及び投資額が増加し、ある程度普遍化すれば銀行も自ら生き延びるため、社会的事業に必要な資金を提供するという本来の役割に復帰してそれに徹するように基本姿勢を転換する可能性がある。また、情報社会の進展によりベンチャー企業としての非営利企業を精選することで低リスクとなるため、銀行貸付と同等若しくはそれにプラスアルファした程度の適切なリターンが得られるだけでも投資するベンチャーキャピタルが現われる可能性が高くなる。
 さらに、非営利企業が新しい分野で大きく展開して社会的要求をこなし、そのための資金調達を容易にするために、非営利企業の存在態様とその活動を法的に明確に位置づける法制を構築することが求められる。現状は企業活動を行うには、株式会社にするのが何かと便利で有利となっているため、株式会社化するしかない状況である。勿論、形式的に株式会社でありながら理念と運営において非営利企業として活動する企業もあるが、自ずから制約と限界があるため、法整備が望まれる。また、法整備の具体的な在り方については、現に活動しているNPO法人の活動による知見や要望に基づいた提案を期待している。
 そうして将来的に非営利企業が主流となると、私企業は特定の物財生産を行う企業しかその存在意義がなくなることから衰退するとともに、適正な競争が行われるように規制が強化されるようになる。また、公企業は、非営利企業によって適切に業務が担われるために不必要となり、公的機関自体が縮小し、財政負担が軽減される。かくして、自由で公正でかつ非効率ではない社会が実現される可能性がある。