本日 2 人 - 昨日 9 人 - 累計 16091 人

情報社会に向けての教育の在り方

  1. HOME >
  2. 情報社会に向けて >
  3. 情報社会に向けての教育の在り方
 情報社会に向けての教育の在り方

1.情報社会と教育
 教育とは、社会の円滑な運営と発展を担っていく人間を形成するために行われる社会的活動であり、当然のこととして社会の在り様や構造によってその内容が規定される。封建社会ではその身分制的秩序を合理化する忠孝などの儒教的な価値観と実学にかかる教育が藩校や寺子屋で行われた。資本制的な社会では、工場生産を担える労働者を作り出すため、相互規制は厳しいがノンビリした田舎暮らしの染み付いた人々の生活態度を一変させるように、集団で規律をもって時間に正確に行動する訓練及び工場生産を中心とした生産活動に必要な基礎的な知識を付与する学課が公的な学校教育を中心として行われている。情報社会においては、その特性を活かすために、与えられた労働を規律をもって効率的に実行するというよりも、多種・多様な才能と能力を持った多数の人々が相互に連携・共同して生き生きと創造的に活動することが重要であり、そのために必要な能力を開発する教育を行う必要がある。
 情報社会において、諸個人に求められる能力は、情報生産に直接係る能力及び文化・芸術・芸能・スポーツなど、すべての文化要素にかかる多様で多彩な能力と、それらを相互に連携する能力が重要であり、情報生産に直接関わる重要な能力としては、新たな発想や観点を構想して提起することができる創造性と、多量の錯綜した情報やデータを取り入れ、整理・組立ての試行錯誤を変幻自在に行ってそれらの情報やデータ群に内在する関係を引き出す情報・データ処理能力と、幅広い知識と見識による判断力で情報の質を端的に識別する能力である。情報社会に向けてこのような能力を開発する教育を行う必要がある。
 また、情報社会において、その社会構造が一部のエリート層と多数の意欲を喪失した層に分離断絶した2層構造になると、狭く、均質なエリート層の世界でしか情報が有効に流通せず、多くの多彩な能力の担い手が社会から疎外され、多種多様な才能の開花が阻害され、社会全体として情報の伝達・連携・共同が行われず、効率的な情報生産の実現による情報社会の展開が阻害されることになる。そのため、このような社会構造の二層化を来たさないような教育が必要とされる。
2.学校教育の現状
 情報社会に向けての教育において、学校教育は当然必要でかつその中核を為すものである。学校教育における教育内容と教育機関の運営をどのようにするのかという教育政策が問われる。現在、教育政策を担う機関として、中央の文科省(文部省)と地方自治体の教育委員会と教育現場である学校を統括する校長(職員会議との合議)というシステムが設置されている。このシステムの意義は、選挙で選ばれたからといって自治体の首長が教育委員会を差し置いて教育現場の運営に関して細かな指示を出すというのはあってはならないということにある。
 教育委員会は、戦後のGHQの理想主義的な教育方針に基づいて1948年に成立した教育委員会法では、時々の権力に左右されない民主的な教育を担保するため、教育委員を公選制とし、さらに予算案・条例案の送付権を持つという強力なものであった。しかし、教育委員の選挙に対する関心が低く、投票率が悪い上に、日教組の力が強く、親も左翼的な人の発言力が強い場合が多かったため、文部省の支配が行き届くようにその権限を強化するため、党派的対立が持ち込まれるという理由で教育委員を地方自治体の首長の任命制とするとともに、予算案・条例案の送付権を廃止し、教育委員会の事務局を行政組織に強く組み込み、また文部省の支配を教育予算を介して強め、教育内容の細部にわたるまで直接支配するようにした。
 ところが、このような教育委員会制度のもとで、現在学校教育に問題が頻出している一方で、その解決ができないという状況を呈しているケースがある。その原因は、教育委員会が、適切に機能せず解決能力を有していないにも関わらず、形式的な法体系として権限を持っていることによる場合が多い。自治体の行政機関の一部となっている教育委員会事務局(以下、単に事務局と記す)が、実体としては文科省-事務局-校長というラインを形成している中で、その事務局に対して教育委員会が無能な諮問機関(教育委員が無能なのではなく、教育委員会という機関が無能なものにされてしまっているということ)として寄生している状態で、自治体の首長及び行政機関は独立機関としての教育委員会に対して干渉を避けるという名目で無責任な対応しかせず、かつ文科省は地域の教育実情については一切関心が無いことの結果である。
 また、高等教育に関しても、日本の大学の国際的な貢献度は低く、研究者は研究環境の悪さのためグローバル化の進展に伴って自らの研究を行うために海外に転出せざるを得なかったり、また日本への留学生が減少しているという事態となっており、国際的な地位低下が明らかになっている。
3.対応策
 このような事態に対する対応策としては、文科省、教育委員会、学校の在り様をそれぞれ再検討して構想し直す必要がある。
 3.1 文科省
 まず、中央の文科省に関しては、地域の学校の実情を熟知し、対応することなど実質的に不可能であり、したがって学校の運営に対して一々支配力を及ぼすべきでないことは明らかである。すなわち、文科省は、食事にたとえれば料理の細かな内容や箸の上げ下ろしまで指示するような現行の学習指導要領を無くし、生徒が初等教育で達成すべき学力を設定するとともに、学習内容が地域間で大きくばらつくのを防止するために、学習の必要最小限の到達目標だけを規定し、具体的な教育課程の実務に関しては複数の好適例を示すことはしても、各教育委員会と教育現場の学校にそれぞれ任せて自ら決定可能とする必要があり、またそうすることで創造的な教育改革が実現することになる。そして、実行された教育課程や教育改革で効果のあった実例を広く収集して公開するようにすることで、効果的な教育課程の普遍化を図ることができる。
 また、学習指導要領の廃止に対応して教科書検定(実質的な国定教科書制)を廃止すると共に、教科書の採択は各学校において校長と職員会議の合議制の下で校長が決定するようにする。それによって教科書出版会社が相互に競争することで、文科省が設定した最低限の学習目標はすべて満たした上で多彩で創造的な教育を可能にする教科書を生み出し、創造的な教育が行われる可能性が広がるものと思われる。なお、教科書の採択に資するために、発行された各教科書についてそれぞれ、複数の教育学者や他の教科書の執筆者による論評を文科省下の第三者機関が収集して公表するようにするのが好ましい。
 3.2 教育委員会
 次に、教育委員会に関しては、特にそのあり方を再構築する必要がある。まず、教育委員に関して再び公選制することも考えられるが、公選制にすれば、教育権を文科省から民主的な機関に取り返して、教育行政が円滑かつ効果的に運営されるというものではないであろう。自治体の首長や議会議員の選挙でさえ投票率が低いのに、教育委員の選挙に対しては高い投票率で適切な人を選ぶという可能性は殆ど考えられないことである。また、教育委員会は、地域の学校教育を直接統括する機関であるから、その機能を有効に果すために、教育委員は当然名誉職のような非常勤の人に任せるべきものではなく、フルタイムで事務局に勤務し、地域の教育現場である学校の現状を時々刻々生で知っている必要があるとともに、事務局を教育委員会がコントロールされる事務局からコントロールするものにする必要がある。
 そのような教育委員会は、地域に根ざした人、教育の専門知識と見識を有する人、行政に明るい人がバランスよく入ったチームによって構成されている必要がある。そのため、教育委員は、各学校のPTAが推薦した人が互選によって選んだ人と、各学校の教職員組織(教組あるいは職員会議)が推薦した人が互選によって選んだ人と、事務局が推薦した人を、首長が教育委員として任命するのが最も妥当であろう。教育委員の任期は4年とし、欠員になると推薦母体から新たに選んで任命し、首長選の度にすべての教育委員の信認投票を行うとともに、住民投票による解職システムを設置することで、最終的なチェック機能を担保しておくのが好ましい。さらに、教育委員会に実権を持たせるために、予算案・条例案の送付権を再び持たせることも検討に値する。
 3.3 学校現場
 次に、学校現場の在り様に関して、まず教育委員会と校長と職員会議の関係の位置づけを確認しておく必要がある。校長は学校の統括責任者であり、教育委員会の方針に基づいてその範囲内で、自由に創造性を発揮して学校内での教育方針を立てて実施する権限と義務を有するものとするのが適切である。ただし、校長は当該校の教育方針の設定に際しては、職員会議で教員との意志疎通を図り、教育方針を合意形成することに最大限の注意を払う必要がある。最も、最終的な決定権が校長にあることは当然である。
 教育方針に関しては、一般に、初等教育(所謂中等も含む)においても、競争的要因が必要であることは認められるが、競争の持ち込み方が重要である。学校教育において、学科成績のみを指標にした競争を単独で持ち込んで、選別を行い、エリート教育を実施すると、差別的エリート意識を持った一握りの人間群と、無能の烙印を押されたことでやる気を無くし、努力する意欲を喪失した多数の人間群を作り出すことになり、情報社会の発展どころか、社会の安定性自体に対して阻害要因になる。以下、初等教育と高等教育について少し具体的に検討する。
(1) 初等教育
 初等教育において、授業内容に関して試験を行うことによって全体的な習得状況を認識でき、授業方法の改善に資することができる。それとともに個々人の習得度の優劣も判明する。個々人の優劣を公表すれば、自然に競争意識が芽生え、努力するようになる面がある。すなわち劣等という結果に反発し、自ら一気にやる気を起こして成績を上げる人間がいることは確かである。しかし、その一方ですべての人間がそうである訳ではなく、劣等であるという結果が出た人間がサポートなしに孤立して放置され、さらに酷い場合には劣等の烙印を押されると、人間は一挙にやる気を無くしてしまう恐れが高い。その結果、一部のエリート層と多数の落ちこぼれ層の2層化を生み出す可能性が高い。
 対応策として、学校教育に当たっては、クラスの成績はクラスの連帯責任とし、授業内容を先に理解している生徒が理解できていない生徒に教えるような授業方式を採用し、時間的に余裕をもって全体が理解すればより高度な理解をしている生徒にその知識をクラスに披瀝する機会を与えるような、クラス全体で生徒同士が教え合うようなチームワークを作り上げ、教師がそれを援助ないし補助するようにすることが最も効果的な教育方法と思われる。その際、クラスの生徒には公表した各生徒の成績は生徒間のみの秘密事項で、親に対しても秘密を守るべきことを確認しておくことが肝心である。その上で秘密が多少漏れたとしても実質的に問題ではなく、秘密事項とすることに意味がある。
 また、全国学力テストを行えば、その結果にて地域間や学校間の格差が判明する。そこで、格差を生じた原因や条件を検討し、格差を解消する対策を講じるのが適切であり、テストを行う目的でもある。また、結果を公表すれば、地域間や学校間で競争が生じ、成績向上のために教育上の工夫や努力が行われる可能性がある一方、場合によっては過当競争や不適切な対応による競争が発生する恐れがある。さらに、格差の存在が社会的に広まることによって、特に校区制の廃止と組み合わされた場合には、一層格差を広げるように生徒・学生が移動し、格差を固定するようになる。
 したがって、テスト結果の公表は、格差を是正する有効な対応体制が十分にかつ強力に確立していることを前提にする必要がある。例えば、経験豊かで圧倒的な教育力を持ちかつ人格的に特に優れた教師を選別して遊撃的に活動する支援教師チームを形成し、成績の良くなかった学校に校長の要請を受けて期限を限って派遣し、担任教師と派遣教師がチームを組んで生徒の学力を向上するように教育環境や教育方法の改善を図って丁寧に教育するようにする。そこで、担任の教師と良好なチームを組めるようにするためにも、優秀でしかも人格的にも優れた教師チームを派遣することが絶対的に必要である。この条件が満たされなければ、却って教育現場に混乱をきたす恐れすらある。このような対策と体制を無しに無暗にテスト結果の公表を行うと、上記のように格差の固定と社会の2層構造化をもたらし、社会全体として情報生産の効率を著しく損なうことになる。
(2) 高等教育
 高等教育に関しては、現状の大学では入学は困難であるが卒業は殆ど勉強しなくても容易にできるという慣行があり、これを根本的に改革する必要がある。現在の共通一次試験を大学入学資格試験とし、所定の点数以下では大学に進学できないようにする。また、各大学への入学に当たっては、簡単な適性試験のみを行うとともに、その大学で入学後に学業を継続し卒業できた学生の成績と共通一次試験の偏差値の相関分布を実績分析に基づいて提供することで入学の判断基準を与え、それを無視して敢えて入学する学生はそのまま受け入れるようにすれば良い。入学後学業が一定のレベルに達しない学生には厳しく対応し、単位を与えずに卒業させないようにすることが重要である。卒業できずに時間を無駄にしてもそれは当然自己責任である。大学自らではそれを律することができなければ、大学卒業時に基礎的な学識に関する全国統一試験を行い、所定の学識を有しないものには卒業資格を与えないようにすべきである。そうすると、大学入学試験偏重が無意味になることで、大学入学偏重による初等教育のゆがみを無くすことができる。また、学業と就職を切り離すため、大学卒業資格取得後でなければ、大学卒としての就職活動ができないようにすべきである。
 このような改革を断行した場合には、多くの大学で学生数が急激に減少し存立できなくなるため、学問の自由に対する国家干渉であるとし、学問の自由を錦の御旗にして猛烈に反対することは明らかである。しかし、そのような「大学」は実体的にすでにそういう機能しか、しかも極めて不十分にしか果していないように、情報社会において必要な高校卒業後の職業訓練校へと誘導すればよい。専門学校と「大学」の垣根をなくし、さらに離職者の再職業訓練の場として活かすようにするのが適切である。
 また、グローバル化に対応して、少なくとも大学では世界中の優秀な学生が入学し易いように、9月入学、8月卒業とし、高校3月卒業後9月入学の間に入試を行った後、入学後の養成講座を開講して学業訓練を行うようにするのが良い。また、8月卒業までは求職活動を不可能とし、8月卒業後4月入社までの間を、入社選考と有給の試用期間とし、4月までに入社を確定するというシステムを大学と財界の間で作り上げることによって、情報社会で大学が果すべき機能を全うすることができるようになると思われる。
4.課外教育と生涯教育
 情報社会に向けての教育においては、学校教育に限らず、課外教育と生涯教育が重要である。
 課外教育としては、各種の習い事もあるが、主流は進学塾で、多くの生徒が進学のために受験に専ら役立つ学習を行っているが、高等教育の改革によってそのような進学塾は不要となる。塾は、学校教育では行わない高度の特化した教育を行う場へと転進を図ることになる。塾は進学塾としての役割から、高度な知識や技能を学ぶエリート教育の場を提供するものに転換し、すべての生徒に色々な分野でそれぞれの得意の種目でエリートになり得る場を提供するものとなることで生き残るべきである。エリートを育てる役割は、学校ではなく、課外教育とネットを利用した教育として行うのが適切である。かくして、連携と共同を行う訓練と広い学識を得る学校教育とエリート教育を受ける課外教育との両輪によってリーダーが育成されることになる。
 課外教育の具体的な内容としては、例えば英語や中国語などの語学、古典文学、現代文学、詩、数学、和算、物理、化学、生物、環境、天体宇宙、生命科学、経済、社会、心理、絵画・彫刻、各種音楽、各種スポーツ、ダンス、バレー、演芸など、多彩な分野の教育を受けることができるようにする。また、その教育施設として学校の施設を放課後に利用できるようにすることで、授業料の低廉化を図り、さらに申請によって公的補助(教育予算)を使って減免制度も設置することで、すべての生徒が自由に利用できるようにすることが必要である。
 さらに、この課外教育は、生徒・学生だけでなく、成人コースも設けることで生涯教育の場となるようにすることが望まれる。また、生涯教育に関しては、すでに多くの大学が実施している市民講座を一層充実させ、広く利用できるようにするのが好ましい。
5.おわりに
 以上の議論は、現実的な改革から遊離した絵空事、安直な思いつきのように考えられるかもしれず、また提案が細部にわたって絶対不変であるとは当然言えないが、このような改革を実現しなければ、情報社会に向けて適合不全を起こす明らかである。また、このような改革を一挙に進めることは現実的にできないが、9月入学制の導入を検討する大学が出てきたように、まずグローバル化の影響に対応して全般的な改革をせざるを得なくなっている大学改革を行い、また初等教育の現場で多発している問題の解消に向けて教育委員会改革の検討を開始することで、順次必然的に他の改革を実施せざるを得なくなり、最終的に上記改革が実現することになる。したがって、最初に大学改革を行うことが喫緊の政策課題である。