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ポストモダンと情報社会への移行

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 ポストモダンと情報社会への移行

 ポストモダンとは、リオタールによれば、近代(モダン)において有効であった「大きな物語」が衰退し、「小さな物語」のみが存在し得る状況になっていることを意味している。「大きな物語」とは「壮大なイデオロギー体系」や「全体が共有する価値観」に基づいてその共通理念・理性を全体に強制するという機制を持ったものであり、「小さな物語」とは、例えば日常の生活活動に伴う物語を典型とし、概念的には「大きな物語」に対して相対的なものであり、現代の社会状況は「大きな物語」が存在できなくなっているという現状認識を表したものである。
 さらに、このような認識とともに、現代においては自律的なものと想像されてきた理性的個人、中心化された主体が不安定化し、主体が浮遊していることを指摘し、さらには近代的な主体の不存在と主体-客体関係の崩壊を主張し、その結果として全体化・中心化を積極的に否定し、反全体化を強く主張し、歴史が一方向に発展しているとする進歩史観を強く否定している。
 現代においては、ポストモダンが指摘するように、単一の「大きな物語」の形成とその物語に集約して全体化するということが不可能であることは確かに認めてよい。即ち、近代において力を持ち得た「大きな物語」-確固・不変の固定的な筋書きを持つ物語-は、情報化の進展に伴って衰退したと言える。元々、人間が構想しうる固定的な筋書きなど、現実から解離してしまうのは時間の問題であり、情報化の進展による多種・多様な大量の情報流通によってそれが極めて短くなったということであり、また多元的な視点が可能となって視野狭窄から容易に逃れられることから「大きな物語」の限界要因が簡単に明らかになり、「大きな物語」を構想すること自体も困難になったということである。
 また、上記のように近代的な世界観においては確固とした「主体」と「客体」の存在が前提となっていたが、情報化の進展によって、例えば仮想空間で設定された財を現実世界の貨幣で取引するようになるなど、それらが実は不明瞭で不確かなものであることが現実的に明らかになったことから、認識に関しても「原本・オリジナル」と「複製」の境界が消失して「シミュラークル」(J.ボードリヤール:原本無き複製)の世界となり、現実と仮想の境界が消失している状況も一部に顕著に現れてきている。
 このようにポストモダンは、近代の「大きな物語」を否定した結果、現代をバラバラな「小さな物語」が単に並存して集積している不安定・不確定な状況の連続からなる多元的で多様な世界の在り様になっていると捉えている。しかし、実体としては単純にばらばらの「小さな物語」が集合しているだけの状況になっているのではない。ポストモダンの理解は、物財生産社会から情報流通社会への過渡期において、一部に発生した極端な現象を過大評価することで誤認したものにすぎない。
 一般に、世界の在り様は、多くの諸個人(近代的な主体ではないが、現存在としての実践主体)による、それぞれあらゆる方向の任意のベクトルを持っている「生きる活動(livable action )」の総体によって、大きく流動する「場(field)」を構成しているのである。
 諸個人の「生きる活動」は、欲求・欲望・希望→目的・目標・手段の設定→状況に対する活動→成果の享受→新たな欲求・・・・という過程(process)を繰り返すもので、その生きがいのある活動によって諸個人が充実した生を全うするものである。
 また、「場」とは、あらゆる「生きる活動」が存在している現実及び仮想の時空間であるとともに、あらゆる「生きる活動」の総体として成り立っているものであり、「場」とその時空間は、「生きる活動」を収容する容器として存在しているのではなく、あらゆる諸個人の「生きる活動」の相互連関によって成り立っている。さらに、「場」は「生きる活動」の相互連関(それは諸個人の間の「関係」でもある)の在り様に対応した動的な「構造」を持っている。というのは、「生きる活動」の相互連関は、ばらばらな諸個人の「生きる活動」間の偶然の「関係」の集積として形成されているのではなく、諸個人の「生きる活動」が諸個人の現に生きている既成の「状況」の中でその「状況」における諸「関係」に規制されて行われていることによって、新たに再生・形成されているものであり、そのため諸「関係」が改変可能に構造的に保持されることになる。したがって、「場」は動的「構造」を持ちかつその構造は「生きる活動」の論理とは次元の異なる独特の論理を持つことになる。この動的な「構造」を持った「場」が、それぞれの「生きる活動」の担い手である実践主体に対して上記「状況」として現前しているのである。したがって、諸個人と「状況」の関係から見れば、諸個人とその認識及び活動の対象である「状況」との「関係」自体が第一次的に存在し、その「関係」の項として「諸個人」と「状況」が存在するとともに、その「関係」の総体が「場」を構成しているのである。
 かくして、「場」は静止しているものではなく、「生きる活動」によって大きく流動するとともに、「場」が「構造」を有することで、諸個人の「生きる活動」の論理とは異なった論理に基づいて絶えずその相を変化させつつ大きく流動することになる。また、「状況」を認識する視座によっても、対象とする「関係」が異なるため現われる相が異なってくる。
 よって、「場」は、「大きな物語」のように固定的な構造と非選択的な変化の筋書きを有するということはないが、静止・停滞しているものではなく、非固定的な構造を持ってかつその構造を変化させつつ選択変更可能に流動している。それは、近代の「大きな物語」を固体の連続体に類比すると、流体の流れにおいて、流体分子があらゆる方向に運動しているが、全体としては一つの流れが現として存在することに類比することができる。
 そして「場」の大きな流動(流体の大きな流れ)を諸個人(流体の分子)がどのように認識できるかということについては、「生きる活動」の担い手である諸個人が、認識した「状況」とその状況認識に対応して実践した「生きる活動」とその結果に基づいて「場」の「構造」とその大きな流動を原理的に認識することが可能であり、情報化の進展によって、グローバルな社会全体をカバーする高容量の情報ネットワークと多層・多元的な複合構造のデータベースが動的に構築されて行くことで、多元的で多様な情報が極めて短時間に応答性よく伝達されることによって現実的にも認識可能となるものと考えられる。