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所有から保有へ

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所有から保有へ
-産業社会(資本主義社会)から情報社会へ-

1.はじめに
 一般には、私的所有を否定すること、その正当性に異議を唱えるようなことは不可能であると思われている。倫理的に自己労働の結果を自己所有するのは当然であり、私的所有を否定すれば、また私有を否定して公有(国有)にすれば、労働のインセンティブ(誘因)、延いては社会発展の動因が阻害されることになるというのが典型的な認識である。また、私的所有はそのまま資本主義経済に結び付いており、私的所有制度下の産業社会は資本主義社会以外にあり得ないとして、私的所有の正当性はそのまま資本主義経済の正当性を意味すると一般的には了解されている。
 しかし、その一方で現実のグローバル金融資本主義は、貧富の格差拡大、バブルと金融危機や財政危機の繰り返しとその過激化、過剰な環境負荷による天候不順などの矛盾がもたらされており、それを正当化することは許されないということも受け入れられている。
 このような矛盾を回避する論理として、私的所有の正当性の主張には、「自然法」や「人間主義」の観点から、他人に損害をもたらすような所有は正当性を持たないとして、所有権には自ずから限界があり、必要に応じて制限を加える必要があるという主張が為されることが多い。(参考文献⑦参照)
 しかし、その主張は私的所有の論理に対して外的に制限を加えるもので、内的な論理を持たないので、制限を加える制度設定には力関係が作用し、実質的に無力であるという現実があり、私的所有の正当化の論理を内在的に批判する必要がある。
2.正当な所有とは
 誰にも所属していず、誰もそのものに利害関係を持っていないもの(無主・無縁の客体)を自己(主体)が労働により加工(生産)して取得した場合に、その加工物(生産物)を自己(主体)の所有物とすることはそれなりに正当性を持ち、正当な所有といえる。このことを「自己労働-自己所有」は正当な所有であると表現する。そして、その所有物をどのように処分しようと自由でその処分は正当であり、またその所有物から産出されあるいは派生したものを自己の所有物とすることも正当であると認められる。これは、ロックの所有論による。(参考文献⑦参照)
 しかし、このような「自己労働-自己所有」による所有と、私的所有制度とは必ずしも同一のものではない。
3.制度としての私的所有の効力と特性
 私的所有制度とは、端的にいえば、一旦所有すれば、所有しているものをどのように処分しようと勝手であるということを普遍化して認める制度である。すなわち、物を所有するとは、その物が自身に所属している、「自分のもの」であるということであり、その「自分のもの」を自分の意志で意のままに処分(使用・加工・変換・貸与・移転)すること、所有物の処分を自己決定して自己に有効な効用を得ることは正当であると認める制度である。すなわち、私的所有は所有に至った経緯と所有対象の特性(元来労働によるものであったか否か)を問わず、所有物の処分に一切の制限を加えないということである。
 この私的所有権は、単独性、絶対性、観念性という特性を有している。すなわち、
 ① 単独性: 一つの対象に関して、一つの所有権のみが設定され、封建制下におけるように、所有に係わって複数の権利が多重・多層的に設定されることを否定し、また単独の所有者以外の他者に、所有に係わる権利が設定されることも排除することを意味する。なお、債権の設定は別である。
 ② 絶対性: 所有者が自己の所有物を自由に使用し、所有物を用いて収益を上げ、所有物を自由に処分(加工・貸与・移転)することに絶対的な権利を有し、その処分に対して他者から干渉を受けることは絶対的に否定されることを意味する。
 ③ 観念性: 所有権は具体的な対象の占有状態に限定されることはなく、また対象によって所有の特性が異なるということがなく、抽象的で普遍的な観念性を有することを意味する。
 という特性を有している。
4.所有移転=関係遮断
 私的所有権制度は、その私的所有の単独性と絶対性という特性から所有の移転に際しては、移転物財が持っていた関係や利害があったとしてもそれを強引に遮断させて移転させることになる。移転されて新たに所有された物財は、新たな所有者の下でその所有者によって設定された関係に入れられる。物財に関しては、空間的に限定され閉じられた状態で存在し、それ自体として自存しているので、関係を切り離し、遮断する移転に対して適合的である。しかるに、私的所有はその観念性(抽象性)によって財の有体性が超克され、非有体的な財まで含むように普遍化されて私的所有の対象となる。また、所有権の移転は、本来切り離すことができず、遮断することができない関係を有しているものでも、その関係が遮断されているものとして移転することになる。例えば、労働力商品のように労働者自身と遮断できない関係が存在していてもそれを無視し、遮断されているものと決め付けて移転させる。本来労働力や土地は商品にできない。労働力及びそれが作用する労働過程は労働者の元にあって、成果物も労働者の元にあり、土地は社会全体の元にある。
5.所有の移転は正当か
 自己所有物の移転にはある程度の正当性は認められるが、移転による所有物から派生したものを所有移転する場合の正当性には限定要件がある。所有移転によって自己所有物となった生産手段(労働力)で、同様の自己所有物を加工(生産)した場合に、その加工物(生産物)を自己所有物として移転して利益を得ることに絶対的な正当性を認めるということには問題がある。何故なら、移転された所有物である労働力が持っている関係が、正当な権限がない部分についても所有者に取り込まれ、所有者に都合の良いように活用されるからである。関係の遮断が本来不可能なもの、例えば土地、労働力、情報等の所有移転については絶対的な正当性は持ち得ない。
6.私的所有制度下の産業社会
 しかし、私的所有制度とは正にそれに正当性を認めることを前提とした制度であり、このような私的所有制度を認めることによって、分業と市場における普遍的な交換による商品流通が成立しており、この普遍的商品流通と物財を生産する企業体の一般化によって産業社会が成立している。私的所有制度なくして市場も産業社会も成立し得なかったと言える。そして、この産業社会では利益目的の企業体の挙動と市場における価格機構に基づいた「見えざる手」の作用によって、適正な資源配分により効率的な社会発展が実現するものとされている。
7.企業体とその利益分配
 私的所有制度の下では、社会的生産組織体の多くは、私的所有の主体となる私的法人という形態の利益目的の企業体(私企業)として存立されている。この企業体(私的法人)での生産の結果物は当然その企業体(私的法人)の所有物となる。また、その私的法人自体はその所有者のもの、株式会社なら株主のものであり、原理的かつ間接的には企業体の所有物はすべて株主のものであるということになる。そして、企業体の利益(生産活動の結果)の分配は、株主に対する配当として為され、それは企業体の所有物の一部をその所有者の間で配分するということであり、企業体の利益を私的所有することの正当性と公正性を主張する論理として、「貢献に応じた分配」というような概念を持ち出す余地はない。あるとすれば、株主が連帯して自らが得るべき利益の一部を功績のあった経営取締役員に任意に分配するということだけである。
8.私的法人としての企業体の矛盾
 しかし、企業体は、それ自体で所有可能な私的法人でありながらその所有者がいるという所有の二重構造を持ち、所有の主体であるのにその所有者がいるという矛盾を持っている。封建領主は労働せずに所有しているとしてその所有の不当性を弾劾されたが、産業社会においては私企業の株主がこの二重の所有関係により労働せずに所有することが可能となっており、明らかに所有の二重構造は「自己労働-自己所有」という私的所有の正当化の論理に関して矛盾を生じている。
9.企業体の内実とその矛盾
 また、私的法人としての企業体の内実(法人が人として活動するための機能の担い手)は経営者と労働者であり、企業体は自らの組織体を運営する担い手としての経営者と労働者によってその実体が構成されている。経営者や労働者がその労働力を企業体に所有移転することで、それらの能力が私的法人たる企業体自身の所有する能力となり、その結果企業体の活動(自己労働)による成果物は企業体の自己所有に帰するという構制である。
 しかし、経営者や労働者がその労働力を企業体に移転する時に、経営者や労働者の自身との関係、及び彼らと彼らを取り巻く世界との関係は、物財(商品)のように遮断してしまうことはできず、むしろそれらの関係に基づくことで能力を発揮して企業体を運営することができるのである。企業体での物財生産の過程が単純なものであった場合には、肉体的な労働力を単純に提供するだけであることから、その労働力は諸々の関係をほぼ遮断した状態で移転可能であったため矛盾は小さかったが、企業体内の生産システムの高度化に伴って、特に産業社会から情報社会への転換に対応して、企業体の活動の内、労働力の所有移転に納まらない関係と能力の重大性が益々大きくなっており、「自己労働-自己所有」という論理は企業体の内実についても矛盾が大きくなっている。さらに、情報化の進展により、リーダーの重要性は増しても、経営者と労働者という役割の相違自体が益々小さくなって、両者を区別することの弊害が増すのは避けられない。
10.「貢献に応じた分配」
 以上のような企業体の矛盾に対する現実的対応として「結果に対する貢献に応じた分配」という概念が提示され、そこに私的所有の正当性を求めるようになってきている。すなわち、移転された労働力による成果はその移転先の所有者のものであるという論理が矛盾を呈し、その論理を現実的に強行すると、労働に対するインセンティブ(誘因)の欠如のため成果が上がらず、企業体の運営が成り立たなくなってしまうようになった。
 そこで、私的所有の正当化の論理の主軸を、観念としての「自己労働-自己所有」から「貢献に応じた分配」へと移動させることで対応することになったのである。その下地は、労働力の移転に対する対価の支払いとして、提供した労働力の量に応じた支払いとしての出来高払制というものがあり、その外見的な類似性によって受け入れ易かったものと思われる。しかし、移転労働力量の大きさに応じた支払と「貢献に応じた分配」とは本質的に異なっている。
11.私的所有の正当化は不可能
 「貢献に応じた分配」とは、生産結果(利得)に対する貢献(能力)の程度に応じて分配を決定するということであり、そのようにして分配されたものを私的所有することは正当であると主張するものである。しかし、論理的にも現実的にも貢献の程度を評価する一元的で公正な規準は存在せず、正当性を主張することはできない。というのは、ある労働が結果に対してどのように影響し、貢献したか、その貢献はどのような関係の中で発揮されたのか、ということを明確な境界を付けて評価することは原理的に不可能だからである。それは、各個人の労働力の形成においても社会全体のシステムが多彩に関わっていて労働力自体が独自に成立しているものではなく、かつ単独の若しくは固定的な関係の下にある限定された労働だけが結果に対して貢献するというようなこともありえず、ある労働に関連している関係は多重・多層かつ流動的であり、幾多の関係が錯綜的に随伴した中で労働が実行されるからである。
 そのような労働の結果(業績)を、生産過程における立場(地位・役割)に基づいて割り振り、それを生産結果に対する貢献の程度による分配であるとしているのが現状であり、かつその生産過程における立場は、現状の社会的環境における社会的地位・役割・経歴・学歴等によるヒエラルキーに基づいて成立しているのである。社会的ヒエラルキーにおける位置又はより直接的に生産過程における立場を高めることによって高い分配を得ようとするインセンティブが働くことになる。したがって、「貢献に応じた分配」とは、私的所有制度に基づいて構築されている現状の階層構造を循環論的に正当化し、生み出される階層格差を螺旋的に拡大するものとなっている。このような社会構造の中で幾多の関係を生かし、それらの関係に基づいて活動・労働したとしても、結果は階層構造に取り込まれた状態でしか評価されず、労働に関連している多彩な関係は外部に排除されてしまうことになる。よって、このような評価と分配を「貢献に応じた分配」であるとして、私的所有を正当化するものとすることはできない。
 勿論例外は多い。ホリエモンはその才覚により一時的であったとしても巨額の富を手にしたが、所詮はイレギュラーな事例に止まり、社会システムに影響するものではない。公民権法以前の過去の米の黒人差別社会にあっても黒人でありながら高い教育を受け、社会的上層階層に身をおいた人もいたが、そのことで黒人差別のない公正な社会であったと言えるものではない。
12.保有概念の提起
 以上のように、貢献に応じて分配して所有することを正当とする私的所有システムは、実際には労働の成果の分配に関して、労働力に随伴している関係を遮断されているものとし、労働の成果を社会的ヒエラルキーに基づいて、極論すれば貧富の差に基づいて分配することを正当とするものであり、私的所有は総合的に見て社会的ヒエラルキーの上位者、富者が労働力に随伴する関係による利得を窃取することを正当とするものである。その結果、全体の富を増やすより優先してまず偏在している富が更なる富を求めることで、程度においても地理的範囲においても格差を拡大し、同一地域内及び地域間の格差拡大、マクロ経済システムにおいてはバブルと金融システムの危機の繰り返しとその規模と深刻度の拡大をもたすことになる。
 関係に基づいた分配を実現するには、私的所有システムの適用を物財の所有と移転に限定し、労働力など、関係を遮断できない対象の所有移転を認めない新たなシステムが必要であることが切実に認識される。そこで、私的所有とは異なり、関係を生かしたままでの「所有」状態として、保有という概念を提起する。例えば、労働力に関して言えば、労働者が所有しているのでなく、今ある状態でその労働者の元にあるというのが正しい認識であり、その状態を保有として把握するものである。なお、物財に対する所有関係は、物財に関する保有の特殊な形態として捉え返すことでそのまま維持することは可能である。
 この保有概念に最も適合するのは情報であり、情報社会においては保有システムが普遍的で適正なシステムである。というのは、情報は関係そのものの認識であり、関係を遮断した情報というのはあり得ず、また情報は無限に複製可能でかつ情報を伝達してもその情報は元に残っており、所有の特性である排他的な単独性も絶対性も持ち得ない。一方、土地や自然は人類以前の存在で、人類がその中で生存する人類の生存環境として、人類に対して普遍的な関係を持つもので、本来的に関係を遮断して移転できるものでなく、所有の特性には馴染まない。かくして、自然(土地)・人間(労働力)・情報は、保有はできても、所有するべきものではなく、所有システムに閉じ込めるべきでない。
13.情報とその保有
 そこで、保有ということを明確にするため、保有に典型的な情報とその保有について実体を明らかにして行くことにする。
 情報は、共役性と協働性、すなわち相互に関係して定義しあい、緊密に結びついて協働的に存在するものである。そのため、情報は諸々の関係を保持・維持した状態で、開かれた系として存在しており、情報に境界を設定し、その範囲に明確な境界線を引くことはできない。また、情報は、自身が備えている相互的な関係に基づいて相互に保有しないと使用できず、情報の価値は相手があって作用し、相手に伝達することで価値を持ち、効果を発揮するという特性を有している。例えば、敵の情報を得るとは、その情報を敵と相互に保有する(その意味で共有する)ことであり、その結果得た情報を利用することができるということである。
 また、情報を保有するとは、諸々の関係を保持・維持した状態の情報が私の元にあるという意味であり、かつ情報は重層的な相互関係の中で存立し、それ自体が構造成態として存在しているので、情報の保有は重層性を持っており、そのことは私的所有の特性とは相容れないため、情報の所有ということは妥当性を有しない。これに対応して、物財(goods)は所有財(property)として所有(possess,(名)possession)され、移転(transfer)されるのに対して、情報(information)は保有(retain,(名)retention)され、伝達(communicate)される。
 主体による情報の保有の具体的な在り方は、主体が有している情報集積構造成態(主体の行動行為実践を規定している)として保有される。情報集積構造成態は、主体がその人生を生きてきた中で獲得された情報の集積が整理され、構造的な態様を成すものとして構築されているもので、他者との相互的協働関係の中で間主観的同調化により、社会的な判断主観一般と相同化して存立しており、それによって他者と、広くは社会的に意思疎通を図り活動することが可能になっているのである。(参考文献①参照)そして、新たに情報が入手されると、その度に情報集積構造成態が再構築されてその情報エンタルピー(情報処理能力の高度性)が高められ、よりレベルの高い認識とより高い情報処理能力が得られるのである。また、各主体の情報集積構造成態の連携組織体であり、情報集積体を備えてワールドワイドに成立しているサイバー空間における自己の立場が高められ、その有効な活用能力が向上する。
 情報を保有している状態での権利は、
 ① 情報使用権: 保有している情報集積構造成態にある情報に基づいて行動・実践を行う権利で  ある。
 ② 情報処理権: 情報集積構造成態において情報を処理して新たな情報を生産・創出する権利で  ある。
 ③ 情報伝達権: 私の元に保有してある情報にアクセスしたい人、価値を認める人に保有してい  る情報を伝達し、伝達する際にアクセス・フィーを得る権利である。なお、保有している情報を伝  達しない自由はあるが、他者に伝達を禁止する権利はない。
14.創作と保有
 「自己労働-自己所有」と同様に「私が創作したものは私のもの」=「創作-私有」
が正当に成り立つという考え方が、私的所有システムの中で抵抗なくというよりも積極的に是認されていると言ってよい。しかし、このような「創作-私有」論に対しては、創作条件は社会のものであり、創作能力も社会的相互性の中で獲得したもの、社会によって形成されたものであり、創作と言いながら、創作された情報の創作性に関してどこからが「私の創作部分」であるかを明確にする境界を設定することはできないというのが実体である。
 それでも、最後の一撃(核)的創作性に意味を認め、私的所有権的な権利を与えるのが、特許権などの知的財産権(知的所有権というのは誤り)の考え方であるが、産業上の発明に対して特許権という私的所有権的な権利を認めるというのは、発明が情報である限りで不適切である。しかし、特許発明に基づいて製造された特許品の物財は、発明(情報)が物に化体したものであるとすれば、その情報にアクセスすることはその物財を入手することであるから、物財に特許料を上乗せして販売する権利を創作者に与えても正当であるというように考えることができる。したがって、特許権とは他人が特許品を製造販売する場合には創作者に対して特許ロイヤリティーを支払う義務があるとするのが妥当であり、私的所有権的な差止請求権などは認めるべきではないということになる。
 著作など、一般的な創作された情報に関しては、私が創作した情報は私の元にあるということであり、その情報にアクセスしたい人、価値を認める人に伝達する際にアクセス・フィーを得る権利が創作者にあるということになる。さらに、創作者には、伝達した情報のさらなる伝達に対してもアクセス・フィーを得る権利が認められるべきである。具体的には、コードにより追跡制御することが可能であり(参考文献⑤参照)、また情報技術の一層の進歩により、著作などの創作された情報は、社会的・世界的なネットワークに構築された多元的なデータセンターに収容されるようになり、創作された情報にアクセスする場合にはその都度データセンターから取り込むことになるので、その都度毎に安価なアクセス・フィーを徴収すればよいことである。アクセス・フィーを得る期間は当然設定されるべきで、その期間を過ぎればフリー・アクセスとなる。その期間は、例えば創作者の生存期間を上限として創作者自身が自ら設定するものとするのが適切であろう。こうして、情報はサイバー空間にある創作者(主体)が保有していることになる。なお、創作された情報が出版物として販売される場合には、特許の場合と同様に対応すればよい。即ち、物財という形態を取る場合には、その物財に著作権料を付加して販売し、創作者はその著作権料を受け取る権利があるということになる。独占的な出版権などというのは、成立し得ないことであり、出版に至るまでに世話になった出版元に対してそれなりの対価を提供するのであれば、著作者自身がお礼として著作権料の一部を支払う契約を締結することになる。
15.労働力と土地の保有
 労働力が主体(労働者)の元にあるということは厳然たる事実であり、その状態を、主体が労働力を保有していると認識するのであって、労働者が移転可能な「労働力」というものを所有しているということでは決してないということを確認すべきである。労働者は保有している労働力とともにその労働力を活用できる関係が存在する場に自らを置き、そこで関係を生かした労働を行うことで価値生産を行うのである。
 かくして、労働によって生産された価値は、原理的には、生産の場における関係に応じて、労働力を保有している労働者と、他の生産要素と、それらの種々の社会的な関係先との間で分配されるべきものである。しかし、実際には関係は多元的・多重的で、価値生産に対する寄与の種類・性質はばらばらで寄与の軽重も多彩であり、正確な寄与の評価による配分など全く不可能である。そこで、総体的には、生産に対する関係の深さに応じて社会的に適正な基準に基づいて労働者と他の生産要素との間で分配し、残余を社会に還元するのが適切である。具体的には、労働者に保有されている労働力に対する適正な分配は、先に同じブログ上で「非営利企業-情報社会に適合した企業形態-」として発表した文章中に開示したように、利益を分配しない非営利企業という企業形態によって実現され、このような非営利企業という企業形態が普遍化することにより全社会的に適正な分配が実現される。
 土地に関しては、景観、環境、水利、水質、空気、生態系、特産品など、その地域で生活しているすべての人びとにとって、広くは地球上のすべての人びとにとって、絶対に切り離すことのできない関係を有している公共財であり、特定の個人が私的に所有し、関係を遮断して自由に処分するというような私的所有権を設定することに正当性はない。土地は、社会的な必要により然るべき理由があって占有し、社会的に活用する人の元にあるべきであり、その人の元にある状態を保有しているものとすることができる。したがって、土地の保有権は占有権であり、その占有の正当性は土地の歴史的経歴と土地の特性・状態と土地活用の社会的意義の大きさに応じて決定されることになり、その正当性により占有権は設定されるべきである。なお、現状は私的所有権が設定されているが、その権限は既に社会的必要性から種々の制限が加えられており、さらに社会的必要性により、すなわちその土地と地域に生活している人びとの間の必要な関係に基づいて制限を厳しくして行けば実質的に占有権に大差ない状態へと変化していくことになり、情報社会への移行に伴って私的所有権が止揚されるのに伴って名実ともに保有されることにならざるを得ない。
16.おわりに
 一般に私的所有制度は未来永劫変わりなく存在し続けると考えられている。その場合、私的所有は社会主義による国家所有に対置されて認識され、1991年のソ連邦の崩壊により国家所有が否定され、私的所有と資本主義の勝利で歴史的に決着したものと考えられている。しかし、私的所有に対しては国家所有が対置されるのではなく、情報化の進展によって、私的所有に代わってそれを止揚するものとして情報に適合的な保有が登場しようとしているのである。なお、私的所有が否定されると、労働者が所有しているものも否定されるのではないかというような理解により私的所有を守ろうとすることも考えられるが、労働者が所有している程度の生活して行く上に必要な財産は所有であっても保有であっても実質的に何の影響も受けるものではなく、主として変わるのは経済社会構造である。また、情報化の進展が格差を拡大すると言われているが、格差の拡大という矛盾は情報化自体が原因ではない。すなわち、縷々説明してきたように、情報は私的所有制度に適合的でないにもかかわらず、その私的所有制度のもとで情報化が進展して経済社会活動における情報生産の比重が大きくなった状態にあり、そのため資本化が不可能な情報が生産の基軸的要素となっている一方で、それにも関わらず資本が資本を生む資本主義を維持しようとすることによる矛盾として格差が拡大しているのであり、私的所有とそれに基づく資本主義の矛盾が顕在化しているのである。情報化がさらに進展して情報社会に向けて移行するのに伴って、社会構造における基軸的なシステムは、物財の私的所有システムから情報の保有システムに移行せざるを得ないということは疑いようのないことである。

 参考文献
 ① 廣松渉、『新哲学入門』、岩波新書、1988年
 ② 雑誌『現代思想』vol.18-9 、「特集 私的所有とは何か」、青土社、1990年
 ③ 立岩真也、『私的所有論』第2版、生活書院、2013年
(第1版、勁草書房、1997年)
 ④ 大庭健・鷲田清一編、『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版、2000年
 ⑤ ローレンス・レッシグ、山形浩生訳、『CODE』、翔泳社、2001年
 ⑥ 大庭健、『所有という神話』、岩波書店、2004年
 ⑦ 今村健一郎、『労働と所有の哲学』、昭和堂、2011年